○かくて産後、日を
○さるほどに、夫は先に立ち、妻は後にしたがいゆく、おっとつまにいう、今日は
夫は蓑笠を吹きとられ、妻は帽子を吹きちぎられ、髪も吹きみだされ、
の人もなく、人家にも遠ければ助くる人なく、手足凍て
雪中の死骸なれば、生けるがごとく。見知りたる者ありて夫婦なることをしり、
△里言には雪吹を「ふき」という。ここには里言によらず。
雪中を
人の
註:
・よく乳(ち)を呑(のま)せて: 初版では、呑(のま)「ま」が判別不能。改訂版で「ま」と特定。
・ずんべ: 初版では「ずんべ」改訂版では「すんべ」
・悲難(なげき): 初版も改訂版も、悲難「難」の字を当てるが、岩波のみ「歎」の字を当てる。
・飈(つじかぜ): 本文では、(つちかぜ)「ち」濁点なし。
また、(つぢかぜ)は誤り、(つじかぜ)と表記すべき。
・吐嗟(あわや): 初版も改訂版も、吐嗟「吐」の字を当てるが、岩波のみ「咄」の字を当てる。咄嗟(とっさ)の誤字としたのだろうか。しかし、吐嗟(あわや)(あなや)と使われる例は散見できる。
・凍死(こごえしな)ず: 本文では、(こゝえしな)「ゝ」濁点なし。
・△里言には雪吹を「ふき」という・・・: 改訂版のみにある。岩波にもなし。
・雪吹(ふぶき)の人を殺す事、: 本文では、(ふゝき)「ゝ」濁点なし。
・溺(おぼれ)て: 本文では、(おほれて)「ほ」濁点なし。
・凍死(こごえしし)たるは、まず: 本文では、(こゝえしゝ)「ゝ」濁点なし。
参照リンク:
私の北越雪譜 吹雪(ふぶき)
単純翻刻
○雪吹(ふゞき)
雪吹(ふゞき)は樹(き)などに積(つも)りたる雪の風に散乱(さんらん)するをいふ其状優美(そのすがたやさしき)ものゆゑ花のちるを是に比(ひ)して花雪吹(はなふゞき)といひて古哥(こか)にもまた見えたり是(これ)東南寸雪(すんせつ)の国の事也北方丈雪(ぢやうせつ)の国我が越後の雪深(ふかき)ところの雪吹は雪中の暴風(はやて)雪を巻騰飈(まきあぐるつぢかぜ)也雪中第一の難義(なんぎ)これがために死する人年々也その一ツを挙(あげ)てこゝに記(しる)し寸雪(すんせつ)の雪吹(ふゞき)のやさしきを観(みる)人の為(ため)に丈雪(ぢやうせつ)の雪吹の愕胎(おそろしき)を示(しめ)す
余(よ)が住(すむ)塩沢(しほさは)に遠(とほ)からざる村の農夫男(のうふせがれ)一人あり篤実(とくじつ)にして善親(よくおや)に仕(つか)ふ廿二歳の冬二里あまり隔(へだて)たる村より十九歳の娵(よめ)をむかへしに容姿(すがた)憎(にく)からず生質柔従(うまれつきやはらか)にて糸織(いとはた)の伎(わざ)にも怜利(かしこ)ければ舅姑(しうとしうとめ)も可愛(かあい)がり夫婦(ふうふ)の中も睦(むつまし)く家内可[祝](かないめでたく)春をむかへ其年九月のはじめ安産(あんざん)してしかも男子なりければ掌中(てのうち)に珠(たま)を得(え)たる心地(こゝち)にて家内(かない)悦(よろこ)びいさみ産婦(さんふ)も健(すこやか)に肥立(ひだち)乳汁(ちゝ)も一子に余(あま)るほどなれば小児(せうに)も肥太(こえふと)り可賀名(めでたきな)をつけて千歳(ちとせ)を寿(ことぶき)けり此一家(このいつか)の者(もの)すべて篤実(とくじつ)なれば耕織(かうしよく)を勤行(よくつとめ)小農夫(こびやくしやう)なれども貧(まづし)からず善男(よきせがれ)をもち良娵(よきよめ)をむかへ好孫(よきまご)をまうけたりとて一村(そん)の人々常(つね)に羨(うらやみ)けりかゝる善人(ぜんにん)の家(いへ)に天災(わざはひ)を下(くだ)ししは如何(いかん)ぞや○かくて産後(さんご)日を歴(へ)てのち連日(れんじつ)の雪も降止(ふりやみ)天気穏(おだやか)なる日娵(よめ)夫(をつと)にむかひ今日(けふ)は親里(おやざと)へ行(ゆか)んとおもふいかにやせんといふ舅(しうと)旁(かたはら)にありてそはよき事也男(せがれ)も行べし実母(ばゝどの)へも孫(まご)を見せてよろこばせ夫婦(ふうふ)して自慢(じまん)せよといふ娵(よめ)はうちゑみつゝ姑(しうとめ)にかくといへば姑は俄(にはか)に土産(みやげ)など取そろへる間(うち)に娵(よめ)髪(かみ)をゆひなどして嗜(たしなみ)の衣類(いるゐ)を着(ちやく)し綿入(わたいれ)の木綿帽子(もめんばうし)も寒国(かんこく)の習(ならひ)とて見にくからず児(こ)を懐(ふところ)にいだき入んとするに姑(しうとめ)旁(かたはら)よりよく乳(ち)を呑(の[ま])せていだきいれよ途(みち)にてはねんねがのみにくからんと一言(ひとこと)の詞(ことば)にも孫(まご)を愛(あい)する情(こゝろ)ぞしられける夫(をつと)は蓑笠(みのかさ)稿脚衣(わらはゞき)ずんべを穿(はき) [晴天(せいてん)にも蓑(みの)を着(きる)は雪中農夫(のうふ)の常也] 土産物(みやげもの)を軽荷(かるきに)に担(にな)ひ両親(ふたおや)に暇乞(いとまごひ)をなし夫婦袂(ふうふたもと)をつらね喜躍(よろこびいさみ)て立出(たちいで)けり正是親子(これぞおやこ)が一世(いつせ)の別(わか)れ後(のち)の悲難(なげき)とはなりけり○さるほどに夫(をつと)は先(さき)に立妻(つま)は後(あと)にしたがひゆくをつとつまにいふ今日(けふ)は頃日(このごろ)の日和(ひより)也よくこそおもひたちたれ今日夫婦孫(けふふうふまご)をつれて来(きた)るべしとは親(おや)たちはしられ玉ふまじ孫(まご)の顔(かほ)を見玉はゞさぞかしよろこび給ふらんさればに候父翁(とつさま)はいつぞや来(きた)られしが母人(かさま)はいまだ赤子(ねんね)を見給はざるゆゑことさらの喜悦(よろこび)ならん遅(おそく)ならば一宿(とまり)てもよからんか郎(おまへ)も宿(とまり)給へ不可也(いや/\)二人とまりなば両親案(おやたちあんじ)給はんわれは皈(かへる)べしなどはなしの間(うち)児(こ)の啼(なく)に乳房(ちぶさ)くゝませつゝうちつれて道をいそぎ美佐嶋(みさしま)といふ原中に到(いたり)し時天色倐急(てんしよくにはか)に変(かは)り黒雲空(くろくもそら)に覆(おほ)ひければ [是雪中の常也] 夫(をつと)空(そら)を見て大に驚怖(おどろき)こは雪吹(ふゞき)ならんいかゞはせんと踉蹡(ためらふ)うち暴風(はやて)雪を吹散(ふきちらす)事巨濤(おほなみ)の岩(いは)を越(こゆ)るがごとく飈(つちかぜ)雪を巻騰(まきあげ)て白竜峯(はくりやうみね)に登(のぼる)がごとし朗々(のどか)なりしも掌(てのひら)をかへすがごとく天(てん)怒(いかり)地(ち)狂(くるひ)寒風は肌(はだへ)を貫(つらぬく)の鎗(やり)凍雪(とうせつ)は身(み)を射(いる)の箭(や)也夫(をつと)は蓑笠(みのかさ)を吹とられ妻(つま)は帽子(ばうし)を吹(ふき)ちぎられ髪(かみ)も吹みだされ吐嗟(あはや)といふ間(ま)に眼口襟袖(めくちゑりそで)はさら也裾(すそ)へも雪を吹いれ全身凍(ぜんしんこゞえ)呼吸迫(こきうせま)り半身(はんしん)は已(すで)に雪に埋(う)められしが命(いのち)のかぎりなれば夫婦(ふうふ)声(こゑ)をあげほうい/\と哭叫(なきさけべ)ども行来(ゆきゝ)の人もなく人家(じんか)にも遠(とほ)ければ助(たすく)る人なく手足凍(こゞへ)て枯木(かれき)のごとく暴風(ばうふう)に吹僵(ふきたふさ)れ夫婦(ふうふ)頭(かしら)を並(ならべ)て雪中に倒(たふ)れ死(しゝ)けり此雪吹(ふゞき)其日の暮(くれ)に止(やみ)次日(つぎのひ)は晴天(せいてん)なりければ近村(きんそん)の者四五人此所を通(とほ)りかゝりしにかの死骸(しがい)は雪吹(ふゞき)に埋(うづめ)られて見えざれども赤子(あかご)の啼声(なくこゑ)を雪の中にきゝければ人々大に怪(あやし)みおそれて逃(にげ)んとするも在(あり)しが剛気(がうき)の者雪を掘(ほり)てみるにまづ女の髪(かみ)の毛(け)雪中に顕(あらはれ)たり扨(さて)は昨日(きのふ)の雪吹倒(ふゞきたふ)れならん [里言にいふ所] とて皆あつまりて雪を掘(ほり)死骸(しがい)を見るに夫婦手(ふうふて)を引(ひき)あひて死居(しゝゐ)たり児(こ)は母の懐(ふところ)にあり母の袖児(こ)の頭(かしら)を覆(おほ)ひたれば児(こ)は身(み)に雪をば触(ふれ)ざるゆゑにや凍死(こゝえしな)ず両親(ふたおや)の死骸(しがい)の中にて又声(こゑ)をあげてなきけり雪中の死骸(しがい)なれば生(いけ)るがごとく見知(みしり)たる者ありて夫婦(ふうふ)なることをしり我児(わがこ)をいたはりて袖をおほひ夫婦手をはなさずして死(しゝ)たる心のうちおもひやられてさすがの若者(わかもの)らも泪(なみだ)をおとし児(こ)は懐(ふところ)にいれ死骸(しがい)は蓑(みの)につゝみ夫(をつと)の家(いへ)に荷(にな)ひゆきけりかの両親(ふたおや)は夫婦娵(よめ)の家に一宿(とまりし)とのみおもひをりしに死骸(しがい)を見て一言(ひとこと)の詞(ことば)もなく二人(ふたり)が死骸(しがい)にとりつき顔(かほ)にかほをおしあて大声(こゑ)をあげて哭(なき)けるは見るも憐(あはれ)のありさま也一人の男懐(ふところ)より児(こ)をいだして姑(しうと)にわたしければ悲(かなしみ)と喜(よろこび)と両行(りやうかう)の涙(なみだ)をおとしけるとぞ △里言には雪吹を「ふき」といふこゝには里言によらず
雪吹(ふゝき)の人を殺(ころ)す事大方右に類(るゐ)す暖地(だんち)の人花の散(ちる)に比(くらべ)て美賞(びしやう)する雪吹(ふゞき)と其異(ことなる)こと潮干(しほひ)に遊(あそ)びて楽(たのしむ)と洪濤(つなみ)に溺(おほれ)て苦(くるしむ)との如(ごと)し雪国の難義(なんぎ)暖地(だんち)の人おもひはかるべし連日(れんじつ)の晴天(せいてん)も一時に変(へん)じて雪吹となるは雪中の常也其力(ちから)樹(き)を抜(ぬき)屋(いへ)を折(くじく)人家これが為(ため)に苦(くるし)む事枚挙(あげてかぞへ)がたし雪吹に逢(あひ)たる時は雪を掘(ほり)身を其内に埋(うづむ)れば雪暫時(ざんじ)につもり雪中はかへつて温(あたゝか)なる気味(きみ)ありて且(かつ)気息(いき)を漏(もら)し死をまぬがるゝ事あり雪中を歩(ほ)する人陰嚢(いんのう)を綿(わた)にてつゝむ事をすしかせざれば陰嚢(いんのう)まづ凍(こほり)て精気尽(せいきつく)る也又凍死(こゞえしゝ)たるを湯火(たうくわ)をもつて温(あたゝむ)れば助(たすか)る事あれども武火熱湯(つよきひあつきゆ)を用(もち)ふべからず命(いのち)たすかりたるのち春暖(しゆんだん)にいたれば腫病(はれやまひ)となり良医(りやうい)も治(ぢ)しがたし凍死(こゝえしゝ)たるはまづ塩(しほ)を熬(いり)て布(ぬの)に包(つゝみ)しば/\臍(へそ)をあたゝめ稿火(わらび)の弱(よわき)をもつて次第(しだい)に温(あたゝむ)べし助(たすか)りたるのち病(やまひ)を発(はつ)せず [人肌(ひとはだ)にて温(あたゝ)むはもつともよし] 手足(てあし)の凍(こゞえ)たるも強(つよ)き湯火(たうくわ)にてあたゝむれば陽気(やうき)いたれば灼傷(やけど)のごとく腫(はれ)つひに腐(くさり)て指(ゆび)をおとす百薬功(やくこう)なしこれ我(わ)が見たる所を記(しる)して人に示(しめ)す人の凍死(こゞえし)するも手足の亀手(かゞまる)も陰毒(いんどく)の血脈(けちみやく)を塞(ふさ)ぐの也俄(にはか)に湯火(たうくわ)の熱(ねつ)を以て温(あたゝむ)れば人精(じんせい)の気血(きけつ)をたすけ陰毒一旦(いんどくいつたん)に解(とく)るといへども全(まつた)く去(さら)ず陰(いん)は陽(やう)に勝(かた)ざるを以て陽気(やうき)至(いたれ)ば陰毒肉(いんどくにく)に暈(しみ)て腐(くさる)也寒中雨雪(うせつ)に歩行(ありき)て冷(ひえ)たる人急(きふ)に湯火(たうくわ)を用(もち)ふべからず己(おのれ)が人熱(じんねつ)の温(あたゝか)ならしむるをまつて用ふべし長生(ちやうせい)の一術(じゆつ)なり
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