人、熊の穴に
○
老夫
我、
さらば重きかたより引き上げんと、
さて是より熊の話也。今一盃たまわるべしとて
かくて熊の身動きをしたるに目さめてみれば、穴の口見ゆるゆえ、夜の明けたるをしり穴をはいいで、もしやかへるべき道もあるか、山にのぼるべき
されど熊は次第に馴れ
さては我を導きたる也と、熊の去りし方を、
両親はじめ
註
・散見(さんけん)すれども: 本文では、すれとも「と」濁点なし。
・主人(あるじ)は酒を好(この)む: 本文では、(あるし)「し」濁点なし。
・[なだれのおそろしき事: 本文では、なたれ「た」濁点なし。
・神仏の御蔭ぞと: 本文では、御蔭そ「そ」濁点なし。
・善光寺(ぜんこうじ)さまを: 本文では、(せんこうじ)「せ」濁点なし。
参照リンク:
私の北越雪譜 熊が人を助ける
単純翻刻
○熊人を助(たすく)
人熊の穴に墜(おちいり)て熊に助られしといふ話(はなし)諸書(しよしよ)に散見(さんけん)すれとも其実地(じつち)をふみたる人の語(かた)りしは珍(めづらし)ければこゝに記(しる)す○余(よ)若かりし時妻有(つまあり)の庄(しやう)に [魚沼郡の内に在] 用ありて両三日逗畄(とうりう)せし事ありき頃(ころ)は夏なりしゆゑ客舎(やどりしいへ)の庭(には)の木(こ)かげに筵(むしろ)をしきて納涼(すゞみ)居しに主人(あるし)は酒を好(この)む人にて酒肴(しゆかう)をこゝに開き余(よ)は酒をば嗜(すか)ざるゆゑ茶を喫(のみ)て居たりしに一老夫(いちらうふ)こゝに来り主人を視(み)て拱手(てをさげ)て礼をなし後園(うらのかた)へ行んとせしを主呼(あるじよび)とめ老(らう)夫を指(ゆびさし)ていふやう此叟父(おやぢ)は壮年時(わかきとき)熊に助られたる人也危(あやふ)き命(いのち)をたすかり今年八十二まで健(すこやか)に長生(ながいき)するは可賀(めでたき)老人也識面(ちかづき)になり給へといふ老夫莞爾(にこり)として再去(ふたゝびさら)んとす余(よ)よびとゞめ熊に助られしとは珍説(ちんせつ)也語りて聞せ給へといひしに主人(あるじ)余(よ)が前に在し茶盌(ちやわん)をとりてまづ一盃喫(のめ)とて酒を満盌(なみ/\)とつぎければ老夫(らうふ)筵(むしろ)の端(はし)に坐し酒を視(み)て笑(ゑみ)をふくみ続(つゞけ)て三盌(ばい)を喫(きつ)し舌鼓(したうち)して大に喜(よろこ)びさらば話説(はなし)申さん我廿歳(はたちのとし)二月のはじめ薪(たきゞ)をとらんとて雪車(そり)を引(ひき)て山に入りしに村にちかき所は皆伐(きり)つくしてたま/\あるも足場あしきゆゑ山一重踰(ひとへこえ)て見るに薪とすべき柴あまたありしゆゑ自在(じざい)に伐(きり)とり雪車(そり)哥うたひながら徐ゝ束(しづかにたばね)雪車に積(つみ)て縛つけ山刀(やまかたな)をさしいれ低(ひくき)に随(したがつ)て今来りたる方へ乗下(のりくだ)りたるに一束(いつそく)の柴雪車より転(まろ)び落(おち)谷を埋(うづめ)たる雪の裂隙(われめ)にはさまり [凍りし雪陽気を得て裂る事常也] たるゆゑ捨て皈(かへら)んも惜(をし)ければその所にいたり柴の枝に手をかけ引上んとするにすこしも動(うごか)ず落たる勢(いきほひ)に撞(つき)いれたるならんさらば重(おもき)かたより引上んと匍匐(はらばひ)して双手(もろて)を延(のば)し一声かけて上んとしたる時足に蹈(ふむ)力なきゆゑおのれがちからに己(おのれ)が躰(からだ)を転倒(ひきくらかへし)雪の裂隙(われめ)より遥(はるか)の谷底へ墜(おちいり)けるが雪の上を濘(すべり)落たるゆゑ幸(さひはひ)に疵(きず)はうけずしばしは夢のやう也しがやう/\に心付上を見れば雪の屏風(びやうぶ)を建(たて)たるがごとく今にも雪頽(なだれ)やせんと [なたれのおそろしき事下にしるす] 生(いき)たる心地はなく暗(くらさ)はくらしせめては明方(あかるきかた)にいでんと雪に埋(うまり)たる狭谷間(せまきたにあひ)をつたひやう/\にして空(そら)を見る所にいたりしに谷底の雪中寒烈(さむさはげ)しく手足も亀手(かゞまり)一歩(ひとあし)もはこびがたくかくては凍死(こゞえしぬ)べしと心を励(はげま)し猶途(みち)もあるかと百歩(はんちやう)ばかり行たりけん滝ある所にいたり四方を見るに谷間の途極(ゆきとまり)にて甕(かめ)に落たる鼠(ねずみ)のごとくいかんともせんすべなく惘然(ばうぜん)とし匃月(むね)せまりいかゞせんといふ思案(しあん)さへ出ざりきさて是より熊の話(はなし)也今一盃たまはるべしとて自酌(みづからつぎ)てしきりに喫(のみ)腰(こし)より烟艸帒(たばこいれ)をいだして烟(たばこ)を吹(のみ)などするゆゑ其次(つぎ)はいかにとたづねければ老父曰(らうふいはく)さて傍(かたはら)を見れば潜(くゞる)べきほどの岩窟(いはあな)あり中には雪もなきゆゑはひりて見るにすこし温(あたゝか)也此時こゝろづきて腰をさぐりみるに握飯(にぎりめし)の弁当(べんたう)もいつかおとしたりかくては飢死(うゑじに)すべしさりながら雪を喰(くらひ)ても五日や十日は命あるべしその内には雪車哥(そりうた)の声(こゑ)さへ聞(きこゆ)れば村の者也大声あげて呼(よば)らば助(たすけ)くれべしそれにつけてもお伊勢さまと善光寺さまをおたのみ申よりほかなしとしきりに念仏唱(とな)へ大神宮をいのり日もくれかゝりしゆゑこゝを寝所(ねどころ)にせばやと闇地(くらがり)を探(さぐ)り/\這(は)入りて見るに次第(しだい)に温(あたゝか)也猶(なほ)も探(さぐ)りし手先(てさき)に障(さはり)しは正(まさ)しく熊也愕然(びつくり)して匃月(むね)も裂(さけ)るやう也しが逃(にげる)に道なくとても命の期(きは)なり死(しぬ)も生(いきる)も神仏にまかすべしと覚悟(かくご)をきはめいかに熊どの我(わし)は薪(たきゞ)とりに来り谷へ落(おち)たるもの也皈(かへる)には道がなく生(いき)て居(をる)には喰(くひ)物がなしとても死(しぬ)べき命也擘(ひきさき)て殺(ころさ)ばころし給へもし情(なさけ)あらば助たまへと怖々(こは/\)熊を撫(なで)ければ熊は起(おき)なほりたるやうにてありしがしばしありてすゝみいで我(わし)を尻(しり)にておしやるゆゑ熊の居(ゐ)たる跡へ坐(すはり)しにそのあたゝかなる事巨燵(こたつ)にあたるごとく全身(みうち)あたゝまりて寒(さむさ)をわすれしゆゑ熊にさま/゛\礼をのべ猶もたすけ玉へと種々(いろ/\)悲(かな)しき事をいひしに熊手をあげて我(わし)が口へ柔(やはらか)におしあてる事たび/\也しゆゑ蟻(あり)の事をおもひだし舐(なめ)てみれば甘(あま)くてすこし苦(にが)ししきりになめたれば心爽(さはやか)になり咽(のど)も潤(うるほ)ひしに熊は鼻息(はないき)を鳴(なら)して寝(ねいる)やう也さては我を助(たすく)るならんと心大におちつきのちは熊と脊(せなか)をならべて臥(ふし)しが宿の事をのみおもひて眠気(ねむけ)もつかずおもひ/\てのちはいつか寝入(ねいり)たりかくて熊の身動(みうごき)をしたるに目さめてみれば穴の口見ゆるゆゑ夜の明(あけ)たるをしり穴をはひいでもしやかへるべき道もあるか山にのぼるべき藤(ふぢ)づるにてもあるかとあちこち見れどもなし熊も穴をいでゝ滝壷(たきつぼ)にいたり水をのみし時はじめて熊を見れば犬を七ツもよせたるほどの大熊也又もとの窟(あな)へはいりしゆゑ我(わし)は窟(あな)の口に居(ゐ)て雪車哥(そりうた)のこゑやすらんと耳(みゝ)を澄(すま)して聞居(きゝゐ)たりしが滝の音のみにて鳥の音(ね)もきかずその日もむなしく暮(くれ)て又穴に一夜をあかし熊の掌(て)に飢(うゑ)をしのぎ幾日(いくか)たちても哥はきかずその心細(ほそ)き事いはんかたなしされど熊は次第(しだい)に馴(なれ)可愛(かあいく)なりしと語るうち主人は微酔(ほろゑひ)にて老夫(らうふ)にむかひ其熊は牝(め)熊ではなかりしかと三人大ひに笑ひ又酒をのませ盃の献酬(やりとり)にしばらく話消(はなしきえ)けるゆゑ強(しひ)て下回(そのつぎ)をたづねければ老夫曰(らうふいはく)人の心は物にふれてかはるもの也はじめ熊に逢(あひ)し時はもはや死地(こゝでしす)事と覚悟(かくこ)をばきはめ命も惜(をし)くなかりしが熊に助(たすけ)られてのちは次第(しだい)に命がをしくなり助(たすく)る人はなくとも雪さへ消(きえ)なば木根岩角(きのねいはかど)に縋(とりつき)てなりと宿へかへらんと雪のきゆるをのみまちわび幾日といふ日さへ忘(わすれ)て虚々(うか/\)くらししが熊は飼犬(かひいぬ)のやうになりてはじめて人間の貴(たふとき)事を知(し)り谷間(たにあひ)ゆゑ雪のきゆるも里よりは遅(おそ)くたゞ日のたつをのみうれしくありしに一日(あるひ)窟(あな)の口の日のあたる所に虱(しらみ)を捫(とり)て居(ゐ)たりし時熊窟(あな)よりいで袖を咥(くはへ)て引しゆゑいかにするかと引れゆきしにはじめ濘落(すべりおち)たるほとりにいたり熊前(さき)にすゝみて自在(じざい)に雪を揆掘(かきほり)一道(ひとすぢ)の途(みち)をひらく何方(いづく)までもとしたがひゆけば又途(みち)をひらき/\て人の足跡(あしあと)ある所にいたり熊四方(しはう)を顧(かへりみ)て走(はし)り去(さり)て行方しれずさては我を導(みちびき)たる也と熊の去(さり)し方を遥拝(ふしをがみ)かず/\礼をのべこれまつたく神仏の御蔭(おかげ)そとお伊勢さま善光寺(せんくわうじ)さまを遥拝(ふしをがみ)うれしくて足の蹈所(ふみど)もしらず火点頃(ひとぼしころ)宿へかへりしに此時近所の人々あつまり念仏申てゐたり両親はじめ愕然(びつくり)せられ幽灵(いうれい)ならんとて立さわぐそのはづ也月代(さかやき)は蓑(みの)のやうにのび面(つら)は狐のやうに瘦(やせ)たり幽灵とて立さわぎしものちは笑となりて両親はさら也人々もよろこび薪とりにいでし四十九日目の待夜(たいや)也とていとなみたる仏叓(ぶつじ)も俄(にはか)にめでたき酒宴(さかもり)となりしと仔細(こまか)に語(かた)りしは九右エ門といひし小間居(こまゐ)の農夫(ひやくしやう)也き其夜燈下(ともしびのもと)に筆をとりて語りしまゝを記(しる)しおきしが今はむかしとなりけり
0 件のコメント:
コメントを投稿