以上京山と牧之を中心としての「北越雪譜」著作苦心談は略々叙し尽したが、こゝに聊か余談として付け加へたいことがある。それは馬琴に関しての事であるが、恰も京山の書翰集を一応借覧し終つた頃に、矢張り塩沢の鈴木家から、其保存されてゐた馬琴の書簡集一冊をも借りて読む機会を得た。それは文政五年といふ年の一年分の馬琴の書状を綴つたもので、其一年間丈けでも罫紙百枚以上からある大冊子となつて居る。偶々それを繙いて見ると、一番先に綴られてあるのが牧之から「北越雪譜」編纂の事を託された折の返翰である。
文政五年戊寅五月十七日付馬琴の書翰には、牧之から嘱された雪譜編纂について色々意見を述べてゐる。第一は挿画について、第二は此書の編纂について実地を見るの要ある事、第三には表題の事等について書いてある。先づ第一の挿画についての意見は、
古人玉山は自然と板下の画に妙を得たる人也、さして学問はなけれど才子なるべし、著述之事はいざしらず、此人世に在つて絵をたのみ、野生著述いたし候はゞ尤もよろしかるべし、江戸にては北斎之外此絵をかゝすべき者なし、乍去彼人はちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざけ、其後は何もたのみ不申、殊に画料なども格外之高料故、板元も喜び申間敷、しからば誰と一人に定めず、東海道名所図会の如く、唐画、浮世絵、そのムキ/\にてより合画にいたさせ可申哉、これも画師一人ならねば跡方のかけ合格外わづらはしく候へ共、山水などは江戸の浮世画師之手際に行く事にあらず、又婦人その外市人の形は浮世絵によらねば損也、両様をかねたるもの北斎のみなれ共、右の意味合なれば、より合画に可致哉と存候事前にも書いた如く、牧之は「太閤記」の画で有名な玉山が越後に赴いた時に、之に画をかゝせる計画で雪譜著作の事を話したことがあつた。馬琴の考も、かゝせるには玉山がよいといふので牧之の考と一致したのであるが、しかし著作の事まで之に任せることは賛成出来ぬ、それは自分などが書くべきものであらうと、馬琴らしい自負をほのめかしてゐる。そこで画に就ては既に世に亡い玉山は今更已むを得ぬとして、彼れよりも以上で必ず世人の共鳴を博する画家としては北斎に限る、と馬琴は説くのであるが、しかし馬琴と北斎とは此時分不和の間柄であつた。当時北斎の画名は頗る高く、門前市を成すばかりに繁昌して居た。その為めでもあつたらうか、自から見識を持して居たので、やゝもすれば馬琴と衝突した。馬琴の言ふが儘にはなつて居ない。遂には両人喧嘩をするに至つて、其間が疎隔してゐた事も事実である。馬琴が北斎に向つて悪声を放つことを辞せぬには、いくらかこの意味が含まれての事らしい。
元来一人で山水にも可、人物にも妙といふ両者兼ね能くする画工は容易にあるわけがない。そこで馬琴が已むを得ず寄合画を工夫するに至つたので、例へば人物を浮世絵師に書かせ、風景を南画趣味の者に書かせるといふ如く、各々其向々によつて長を択び粹を鍾める方法を執らうとしたのも一応無理のない計画といはねばなるまい。
其次には、実地に臨み越の山、越の川、さては其風俗人情まで親しく視察を遂げた上でなければ、執筆は出来ないと云うて、其書翰に左の如く書いて居る。
右の一著述あらまし認め被遣候趣にてつゞり候へば、さしてむつかしき事にはあらぬを、愚意の趣にすれば、はなはだ手おも也、所詮御地を一見せずには筆を起し難かるべきかと存候、乍去旅行のことは前にも申候通り三里五里之歩行も自由ならず、且つ諸費をいとはずにといふ程の余力も無之故、中々急には思ひ企てがたき業なれども、何とぞ明年明々春までに御すゝめ之湯治をかね、せめて御地を踏候て、その上にて著述いたし候はゞ、後悔も少く筆もとり安くと存候、この儀はかく存候までを申也、我身ながらわが自在にもなりかね候故申すまでにて、おぼつかなき事に御座候、今十年も昔に候はゞ如何ともなり候、何事も時節おくれ心のまゝにならず、これのみ残念の至りに御座候馬琴の如き綿密周到なる作者としては、只牧之から与へられた草稿を書き直す丈けでは到底満足する事は出来なかつたことであらう。且つ京山は、自分が執筆しても京山自身の著作とせず、牧之の著として世に出さうとしたのに、馬琴は然らず、彼れ自らの著作として牧之が考訂するといふ形式をとらうとしたので、京山の時とは全く逆に出ようとしたのであるから、由来細心の馬琴としては実境を見んとしたのも当然である。殊に江戸に於ては殆ど想像のつかぬ大雪の事を書かうといふのであるから、土地の事情をも見、まのあたり牧之にも逢うて種々質問した上でなければ迂闊濶に筆は執れぬといふ感じを起したのも自然である。
併し此書簡にもあるやうに、さうしたいとは言ひながらも、真実さうする意があつたわけではない。馬琴としては、たとひ越後漫遊の望みはあつたものとしても、当時の事情が許さなかつたのであつて、この書簡から見て到底出来ないといふことを暗示して居るやうな気がする。又それは果して実現せずして終つたのである。最後に書物の表題について曰く、
外題の事色々考見候処、北越雪中図会などいたし候ては、只今図会ものすたり候故をかしからず、又北越雪話などいたし候ては外題かろく、わづか二三冊之半紙本めきて損也、又先年北越奇談と申す書世にあらはれ候へ共、当地にては評判どつともいたし不申、北越之二字先をこされ今更人まねする様にて残念也、依之「越後国雪中奇観」と可致哉と存候へ共、雪中の二字未だ落ち着不到候様に存候、いづれ尚又近々之内とくと考へ、玄同放言奥目録中へ右之外題をあらはし、その外追々拙者へ右外題を書載せ、世之人に知らせおき可申候、左様に候へば、うり出し之節大につよみになり申候、尤も越後塩沢鈴木牧之考訂といたし申候、随分御骨折らせられ、出版成就之節御亡父様への御孝養にもと存候事に御座候、奇観之二字は動くまじくと被存候、いかゞ、六出玉屑みな雪の事なれ共、さては俗へ遠くて損也、雪中之二字とくと考可申候事前掲馬琴の書簡を通読して見ても、当時彼れが頻りに外題の事で苦心して居たことがわかる。実は本の売れると否とは主として外題の付け方如何に在るので、作者としては第一に其選定に心を砕くが古今共通である。依頼を受けると匆々、真先にこの外題について馬琴が意を用ゐたのは無理からぬ事である。
そこでいろ/\考案の結果、遂に雪譜といふ字を考へ出したのは、この書簡を発してから後の事に属する。鈴木家から借覧した馬琴の書簡集も調べて見たが、雪譜と命名するに至つたことを認めた書簡は見出さなかつたから、それ丈けが欠けて居るのであらう。尤も綴られた書簡中に、雪譜云々といふことが散見される所から察すると、命名に関する書簡が其間にどうしてもなければならぬ筈なのに、これが欠けて居る所以は、恐らく其分丈けが半切れか何かに書かれてあつて、一定の用紙に書かれた書簡のみを綴る場合に、それを挿む事が不便であつた為めに此分丈け逸したのであらう。兎に角雪譜の名が馬琴によつて選ばれたことはたしかで、後に其著作が馬琴の手を離れてからも猶ほ其名を用ゐなければならなかつた次第も前に挙げた通りである。
馬琴の書簡として引用した前掲三断の音信は、実は皆連絡したもので、同一便に寄せたものであるが、たゞ説明の便宜の上から三つに分けたのである。この書簡は、牧之が雪譜編纂の事を馬琴に託した当時の事情を語り、又一面には、まだ京山の引受けない前の経緯を推知する資料ともなるものである。
尚ほ終りに書き加へるが、文政五年といふ僅か一年の間に牧之に与へた馬琴の書簡は、罫紙で百枚以上二百枚近くになつてゐることは前にも書いたが、此の他に散逸した書状はいくらあるかわからないから、之をも集めたら非常な量を示すことであらう。当時の人は書簡を認めるに堪能であつたからでもあらうが、馬琴の如くに筆硯の忙しい寸陰をも惜むその人が、よくも斯うまで努めたものだとつく/゛\感じ入るのほかはない。
註:
・野生: 自分の謙称。拙者。
・格外: 並外れて。
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