更に又「北越雪譜」の問題に戻るが、天保六年九月九日の書簡には左の如く認めてある。
私ねがひには雪志初篇来春三月迄に上梓発兌して評判よろしく、書肆後篇もと申候節にいたりて、五月京水を具して尊堂へ草鞋をとき、後篇の御相談いたし、京水真景を写候事もあるべし、かくあらば上々の首尾也、表題の事学友達へも相談いたし候処、話の字よりは志の字の方可ならんと皆申候ゆゑ十目の視る所に従ふ
・・・・・・・・・・・・・・著
北 越 雪 志 三巻
・・・・・・・・・・・・・・校
此書は ・・・・・・・・・・・・・・書肆文溪堂梓
右日向半紙一枚半にすり申候もの江戸中大屋へくばり申候、是を書林のことばにびらと申候、売り出しまへにくばる也、右は十枚ばかりやがてさし上可申候
これによると、兎も角相当に筆もはかどつて、先づ凡そ其時分の習慣として「ちらし」を撒く迄に進んだのである。且つ又若しも成功すれば、息子で画のかける京水を伴ひ、後篇出版の相談に越後行の段取迄してゐることが窺はれる。
尚ほ此京水について少しく書いて置くべきことは、京水は此作者の片腕ともなるべき大切の働きをしたもので、画が相当に描かれた為めに、雪譜著作前の事ではあるが、京山は京水を伴うて熱海に遊び、数日そこに入浴した際も京水に熱海の風景を描かせて、それに京山の文章を
添へ、「熱海図景」と題して世に出したこともある。更にこゝに付記すべきは「北越雪譜」の挿画の大部分は京水の手に成つたことである。
註:
発兌 (はつだ): 出版すること。
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