一九 京山と越後
京山の書簡なるものは、彼が塩沢に牧之を尋ねた所までしか書かれてないので、塩沢に於ける京山の消息、江戸へ戻つて雪譜後篇を著はすまでには四年もかゝつてゐるが、この間に牧之とどんな往復を重ねたものか、その点が甚だ明確でない。京山の書簡集は今一冊あるといふから、それを見ればおのづから判断もつくであらうが、寓目する機会を得ぬので想像して見るほかはないが、只雪譜後篇を読むと、京山が越後に於て見聞したことがチラホラ載せられてあるので、それによつて消息の一端は窺はれる。第一、京山は越後を如何に見たかといふに、実は京山の息子を連れて越後へ行つたが、越後でも山の多い殊に深山地の魚沼(うをぬま)地方を見た丈で、新潟にも寺泊にも行く事を期して居たに拘はらず、折ふし主人役の牧之が中風に罹つて湯治に出かけるといふ騒ぎで、万事心の儘に行かなかつた事情もあつて、幾ど何処へも行かずに江戸へ立帰つたと見える。
雪譜後篇に京山の録して居るのを見ると、塩沢滞在四十日、塩沢をはなれて小千谷(をぢや)へ遊んだのが十数日、小千谷には岩居といふ人が居て、姓はわからぬが牧之とは親戚関係にあるものらしく、京山はそれを頼つてその家に滞在し、それから江戸へ戻つた。折角百里を遠しとせずして出かけた京山は、山を見て帰つたに過ぎぬ。塩沢は別して山地、滞在中の四十日間は殆ど一回も鮮魚といふものを箸にすることが出来なかつた。小千谷に至つて始めてそれも川魚である鮮魚を口にしたのである。
併し京山の越後へ着後は熱心に雪の問題を研究した。其中でも一番興味を感じたのは市中の家屋の構造であつたらしい。即ち雪国特有の雁木(がんぎ)を見て不思議の眼をみはつたのであつた。それから雪中歩行の用具「かんじき」の如き実物を見たのは始めてゞあつて、京山はそれを自ら穿き試みなどしたものであつた。牧之の家人はそれを穿いて、あの重くるしいものを自由自在に操縦するのに、京山は穿いて見ると身動きもならなかつたといふ笑話もある。
又小千谷滞在中、一人で郊外に散策を試みた事がある。さうすると物を荷うた三人の女に出逢うた。此三人の女は物を荷うては居るがよく見ると鄙(ひな)にはめづらしい程の美人なので、越後には美人が多いと予て聞き及んだ如く、実際美人国であると感じ、さすがの京山も見とれて恍然となつた程であつたが、岩居の家に帰つて其の事を話すと、一同は笑つて、其女こそ此の辺の穢多の妻や娘で、誰も相手にするものはないと云はれて一笑したといふことや、又同じく小千谷滞在中、地獄谷(ぢごくだに)で遊んだのであるが、其時岩居は気を利かせて、土地の芸妓ニ三名を杯盤の間に侍せしむるため、予め先に遣つて置いた。
さて京山は行つて見ると、まことに嶮阻なる道に、崩れかゝつた茶屋が僅に一軒あるやうな山間に、其近所には見られないやうな女が居て茶を侑める、酒を饗する、これにも吃驚して聞いて見ると、小千谷の妓なる事がわかつて、さうかと頷いたのであつたが、帰途連れ立つて戻つた時に、孰れも草鞋をはいて歩き出したのを見て、これはとてもも都会には見られぬ一種の風俗だと、頗る面白がつた事などが書かれてある。又三国峠(みくにたうげ)を通つて或茶屋に憩ふと、天然の氷があるので、京山は之に大なる興味を覚えて「其氷を」といふと、砂糖の代りに豆粉(きなこ)をかけて出されたのには京山も辟易して、荷うてゐた行李の中から砂糖を取り出し、かけ直したといふことも載つてゐる。
註:
・杯盤:本文では、「抔盤」「抔」手へん。
・天然の氷:「其氷を」:本文では「水」となっている。
北越雪譜の二編巻一 「削冰(けずりひ)」の話。
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