2013年7月31日水曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 22.余談ニ三

   二ニ 余談ニ三

 以上京山と牧之を中心としての「北越雪譜」著作苦心談は略々叙し尽したが、こゝに聊か余談として付け加へたいことがある。それは馬琴に関しての事であるが、恰も京山の書翰集を一応借覧し終つた頃に、矢張り塩沢の鈴木家から、其保存されてゐた馬琴の書簡集一冊をも借りて読む機会を得た。それは文政五年といふ年の一年分の馬琴の書状を綴つたもので、其一年間丈けでも罫紙百枚以上からある大冊子となつて居る。偶々それを繙いて見ると、一番先に綴られてあるのが牧之から「北越雪譜」編纂の事を託された折の返翰である。

 文政五年戊寅五月十七日付馬琴の書翰には、牧之から嘱された雪譜編纂について色々意見を述べてゐる。第一は挿画について、第二は此書の編纂について実地を見るの要ある事、第三には表題の事等について書いてある。先づ第一の挿画についての意見は、
古人玉山は自然と板下の画に妙を得たる人也、さして学問はなけれど才子なるべし、著述之事はいざしらず、此人世に在つて絵をたのみ、野生著述いたし候はゞ尤もよろしかるべし、江戸にては北斎之外此絵をかゝすべき者なし、乍去彼人はちとむつかしき仁故、久しく敬して遠ざけ、其後は何もたのみ不申、殊に画料なども格外之高料故、板元も喜び申間敷、しからば誰と一人に定めず、東海道名所図会の如く、唐画、浮世絵、そのムキ/\にてより合画にいたさせ可申哉、これも画師一人ならねば跡方のかけ合格外わづらはしく候へ共、山水などは江戸の浮世画師之手際に行く事にあらず、又婦人その外市人の形は浮世絵によらねば損也、両様をかねたるもの北斎のみなれ共、右の意味合なれば、より合画に可致哉と存候事
前にも書いた如く、牧之は「太閤記」の画で有名な玉山が越後に赴いた時に、之に画をかゝせる計画で雪譜著作の事を話したことがあつた。馬琴の考も、かゝせるには玉山がよいといふので牧之の考と一致したのであるが、しかし著作の事まで之に任せることは賛成出来ぬ、それは自分などが書くべきものであらうと、馬琴らしい自負をほのめかしてゐる。そこで画に就ては既に世に亡い玉山は今更已むを得ぬとして、彼れよりも以上で必ず世人の共鳴を博する画家としては北斎に限る、と馬琴は説くのであるが、しかし馬琴と北斎とは此時分不和の間柄であつた。当時北斎の画名は頗る高く、門前市を成すばかりに繁昌して居た。その為めでもあつたらうか、自から見識を持して居たので、やゝもすれば馬琴と衝突した。馬琴の言ふが儘にはなつて居ない。遂には両人喧嘩をするに至つて、其間が疎隔してゐた事も事実である。馬琴が北斎に向つて悪声を放つことを辞せぬには、いくらかこの意味が含まれての事らしい。

 元来一人で山水にも可、人物にも妙といふ両者兼ね能くする画工は容易にあるわけがない。そこで馬琴が已むを得ず寄合画を工夫するに至つたので、例へば人物を浮世絵師に書かせ、風景を南画趣味の者に書かせるといふ如く、各々其向々によつて長を択び粹を鍾める方法を執らうとしたのも一応無理のない計画といはねばなるまい。

 其次には、実地に臨み越の山、越の川、さては其風俗人情まで親しく視察を遂げた上でなければ、執筆は出来ないと云うて、其書翰に左の如く書いて居る。
右の一著述あらまし認め被遣候趣にてつゞり候へば、さしてむつかしき事にはあらぬを、愚意の趣にすれば、はなはだ手おも也、所詮御地を一見せずには筆を起し難かるべきかと存候、乍去旅行のことは前にも申候通り三里五里之歩行も自由ならず、且つ諸費をいとはずにといふ程の余力も無之故、中々急には思ひ企てがたき業なれども、何とぞ明年明々春までに御すゝめ之湯治をかね、せめて御地を踏候て、その上にて著述いたし候はゞ、後悔も少く筆もとり安くと存候、この儀はかく存候までを申也、我身ながらわが自在にもなりかね候故申すまでにて、おぼつかなき事に御座候、今十年も昔に候はゞ如何ともなり候、何事も時節おくれ心のまゝにならず、これのみ残念の至りに御座候
馬琴の如き綿密周到なる作者としては、只牧之から与へられた草稿を書き直す丈けでは到底満足する事は出来なかつたことであらう。且つ京山は、自分が執筆しても京山自身の著作とせず、牧之の著として世に出さうとしたのに、馬琴は然らず、彼れ自らの著作として牧之が考訂するといふ形式をとらうとしたので、京山の時とは全く逆に出ようとしたのであるから、由来細心の馬琴としては実境を見んとしたのも当然である。殊に江戸に於ては殆ど想像のつかぬ大雪の事を書かうといふのであるから、土地の事情をも見、まのあたり牧之にも逢うて種々質問した上でなければ迂闊濶に筆は執れぬといふ感じを起したのも自然である。

 併し此書簡にもあるやうに、さうしたいとは言ひながらも、真実さうする意があつたわけではない。馬琴としては、たとひ越後漫遊の望みはあつたものとしても、当時の事情が許さなかつたのであつて、この書簡から見て到底出来ないといふことを暗示して居るやうな気がする。又それは果して実現せずして終つたのである。最後に書物の表題について曰く、
外題の事色々考見候処、北越雪中図会などいたし候ては、只今図会ものすたり候故をかしからず、又北越雪話などいたし候ては外題かろく、わづか二三冊之半紙本めきて損也、又先年北越奇談と申す書世にあらはれ候へ共、当地にては評判どつともいたし不申、北越之二字先をこされ今更人まねする様にて残念也、依之「越後国雪中奇観」と可致哉と存候へ共、雪中の二字未だ落ち着不到候様に存候、いづれ尚又近々之内とくと考へ、玄同放言奥目録中へ右之外題をあらはし、その外追々拙者へ右外題を書載せ、世之人に知らせおき可申候、左様に候へば、うり出し之節大につよみになり申候、尤も越後塩沢鈴木牧之考訂といたし申候、随分御骨折らせられ、出版成就之節御亡父様への御孝養にもと存候事に御座候、奇観之二字は動くまじくと被存候、いかゞ、六出玉屑みな雪の事なれ共、さては俗へ遠くて損也、雪中之二字とくと考可申候事
前掲馬琴の書簡を通読して見ても、当時彼れが頻りに外題の事で苦心して居たことがわかる。実は本の売れると否とは主として外題の付け方如何に在るので、作者としては第一に其選定に心を砕くが古今共通である。依頼を受けると匆々、真先にこの外題について馬琴が意を用ゐたのは無理からぬ事である。

 そこでいろ/\考案の結果、遂に雪譜といふ字を考へ出したのは、この書簡を発してから後の事に属する。鈴木家から借覧した馬琴の書簡集も調べて見たが、雪譜と命名するに至つたことを認めた書簡は見出さなかつたから、それ丈けが欠けて居るのであらう。尤も綴られた書簡中に、雪譜云々といふことが散見される所から察すると、命名に関する書簡が其間にどうしてもなければならぬ筈なのに、これが欠けて居る所以は、恐らく其分丈けが半切れか何かに書かれてあつて、一定の用紙に書かれた書簡のみを綴る場合に、それを挿む事が不便であつた為めに此分丈け逸したのであらう。兎に角雪譜の名が馬琴によつて選ばれたことはたしかで、後に其著作が馬琴の手を離れてからも猶ほ其名を用ゐなければならなかつた次第も前に挙げた通りである。

 馬琴の書簡として引用した前掲三断の音信は、実は皆連絡したもので、同一便に寄せたものであるが、たゞ説明の便宜の上から三つに分けたのである。この書簡は、牧之が雪譜編纂の事を馬琴に託した当時の事情を語り、又一面には、まだ京山の引受けない前の経緯を推知する資料ともなるものである。

 尚ほ終りに書き加へるが、文政五年といふ僅か一年の間に牧之に与へた馬琴の書簡は、罫紙で百枚以上二百枚近くになつてゐることは前にも書いたが、此の他に散逸した書状はいくらあるかわからないから、之をも集めたら非常な量を示すことであらう。当時の人は書簡を認めるに堪能であつたからでもあらうが、馬琴の如くに筆硯の忙しい寸陰をも惜むその人が、よくも斯うまで努めたものだとつく/゛\感じ入るのほかはない。


註:
・野生: 自分の謙称。拙者。
・格外: 並外れて。

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 21.京山の余技と嗜好

   ニ一 京山の余技と嗜好

 そこで京山が茶人といふことに就て少しく書くが、前に録した祝融の災に罹つて、京山があらゆる物を失つた時分、しば/\牧之に書を寄せて、田舎の山村辺に籠細工(かございく)で極めてさびたものはあるまいか。それは自分が茶の時の炭取りに用ゐたいのであるとて図まで書いて、どうか捜してもらひたいと申し遣つたことなどが見える。京山も茶には余程趣味があつたものと見えて、忙しい間にも時々定つた日には師匠の茶会へも出席し、或は自分の家で友人と茶会を催した事が書いてある。それに篆刻の技もかなりの処まで練達してゐたらしく、牧之に与へた京山自刻の印が書簡の余白に四ツ五ツ押してあるのを見るに、今日では自分等その事に趣味を有してゐる者から云はせれば余り上手とは評されぬが、兎に角先づ一通りは出来てゐる。随分当時京山の文壇に於ける名声を聞いて、印を託した者も鮮くなかつたやうで、筆を執る忙しい間には、時に印を刻してそれを生計の糧にあてたものである。

 十数年に亘る京山と牧之の交際に於て、互に物を贈答したことも多かつたが、牧之は常に味噌漬を贈つた。又寒晒し(片栗(かたくり))を贈り、時には塩引(しほびき)を贈つて居る。その他種々なる越後の土産を贈るのが例であつたが、京山が何時も頻りに御礼を云うて喜んで居たのは、重にこの味噌漬、片栗、塩引の三品であつた。当時は今の如くに小包郵便のあるわけではなく、飛脚が担いで江戸迄持つて行くのであるから、軽いものでなければ土産として甚だ不便である。片栗にせよ、味噌漬にせよ、塩引にせよ、分量は少なくとも重量は相当にある。それを何時も贈るので、京山は費用を構はずに贈つてくる此土産に対しては、いかにも御厚意有難しとて繰返し感謝してゐた。越後の味噌漬は其時分の江戸の食道楽者間にも余程珍とせられたものと見えて、味噌漬の紫蘇(ちそ)、大根、茄子の類を京山の台所では頗る大切にしてゐた事が其書簡に尽されて居る。

又寒晒しも、江戸には類似のものはあつても全く製法が違ふので、京山は下戸であつた所から別して之を喜んだ。且つ自分の娘共が大名に仕へて居たので、この味噌漬、片栗は必ず幾何かを割愛して娘たちに贈つたもので、娘は又それを殿様に献上して居る。或は片栗が若君の食料に自然供される所から、大名に於ても喜んでゐたといふ消息が常に牧之に報じてある。京山を通じて越後の産物が、当時西国大名の味ふ所となつたのも亦興味ある事を思ふ。


註:
・祝融: 火の神。転じて火事のこと。
・紫蘇(ちそ): しそ。

2013年7月30日火曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 20.京山と其家庭

   二○ 京山と其家庭

 ついでながら京山に就てもう少し録して置かう。それは雪譜のことに関係する以外、しばしばの往復に京山が其書簡中に現はしてゐる事実で稍々趣味ありと思ふ京山の身の上に就てゞある。京山は牧之と同甲で、四十年交つたといふ、その交情は友人といふよりは寧ろ親戚の味ひがある。従つて書簡のはしには必ず互に親族合ひの事迄も叙するのが常であつて、それによつて両者家庭の事もおのづから窺はれる。

 京山には三四人の娘があつて、三人いづれも諸侯に仕へてゐた。中にも二人の娘は長州侯に召されて、その中の一人はお妾になつて二人の子まで挙げて居る。そしてその娘は侯から京(きやう)といふ名を与へられて居た。その妹も亦長州侯に仕へて居る事実が京山の書状中に見えて居る。この事について牧之は例の「児孫に示す」の序文の終りに付記して居る事があるから、それをこゝに抄録して見る。
京山、余と同齢ながら白髪なく眼明かに上下の歯鮮か也云云、又序にいふ、京山娘五人の内両人踊り上手にて長州侯 (萩の城主松平大膳大夫)に御覧に入れ候処、御満悦の上両人共に奉公に参上候様 (荏土(えど)の踊は芝居也) 仰せあり、山東答に、賎き者の娘、第一仕付が大金故力不及と申すを、奥女中より、物入りは此方にて致すとの事につき差上る、間もなく一女は中老に立身、殿様よりお京と名を賜はり寵遇渥く、後には御部屋となり、姫君翌年若君誕生、斯くなれば親元より願出れば親元へ三百石被下家例なれども山東願出ず、併し山東部屋へ出れば羽振よしとの事、妹は若君御膳番と申す事、実に女は氏なくして玉輿にのると是等をいはむ
京山の書簡にも、文政十二年如月二十二日付の分に、その娘を萩に遣はした事が一寸書いてある。
去年卯月十六日、娘二人、松平大膳様御供にて三百里外の旅路を長門之萩に発足、いまだ年行かぬ者共故一ケ年之在勤心元なく、妻をも番頭お乳の人に付てつかはし、跡は男ぐらし之私並伜両人、おろかなる手代小者など、味噌桶之世話までいたし、男やもめ之うぢうぢくらし居り、殊之外繁雑云云、妻並娘も所々見物いたし、当春三月二十四日めでたく帰着いたし候へ共、娘共はもとより桜田御屋敷に罷在り、焼原よりは帰り不申、今に男ぐらしいたし居り申候
これで娘の消息が分る。全体世間には山東京伝、京山をいろ/\研究する人があつて、此両人は殿様の落胤だなどゝいふ説もある。其真否は知らないが、さう思はるゝ節は満更無いでもない。考証家の説は姑く措いて、若し或人のいふが如く落胤であるとすれば、京山の女(むすめ)が多く諸侯に仕へて居る点からいふと妾因妾果ともいふべきものがあるやうにも思はれる。流石に京山は学問があつた丈けに、牧之の自叙伝文にもあるが如く自分の娘の故を以て三百石の扶持を受ける事はしなかつた。それは京山の見識として認めねばなるまい。
 又文政十二年九月の書状中に、総領娘の事をいうて居る。この総領娘も亦大名へ行つてゐるのであるが、これは萩に行つて居るのとは違ふ。その書簡には、
私は惣領娘お増とて二十三歳、当時松平大和守様え老中をつとめ居、伜京屋伝蔵二十一歳、次にお京とて十八歳、次に今とて十六歳、此両人は松平大膳様へ御奉公いたし、京は殿様若年寄つとめ居候、末之男子は京水にて梅作と申候
というて居る。これによると総領娘の次に長男、其次に娘二人、末が男子の五人の子供の内、娘三人までが諸侯の奥づとめをして居たのである。京山は尚ほ自分の子供に対する家庭の実況について写実的に興味のある光景を左の如く云うて居る。
親の子に於ける、胡蝶が菊を作る楼のものにて、苗より種々丹精いたし、花の頃は己が胡蝶故、いつか老にのぞみ申候、伜未だ独身にて近来花柳に狂ひ出し大に散在致し候、依つて未だ家事を許し難く、私浪人にて刀を差し候へ共士商の片身がはりにて、机の上に帳面をひらき燈下に十露盤をならすかと思へば編筆に拙詞を連ね、印をほるかと見れば製薬を丸め、袴をぬけば前だれを結び、田舎芝居の由良之助、五段六段の狂言綺語、世話しき中に釜をかけて松風を楽しみ申す事驕奢にあらず、茶禅に気を養ひし迄に御座候

此書状もなか/\趣のある書きぶりで、彼れの日常や家庭の模様が簡単に叙されて居る。即ち武士かと思へば町人、戯作者かと思へば茶人、やはらかいもの許り書くかと思へば印刀を取つて篆字を刻する、その目まぐらしいやうな生活が如実に描き出されて居る。


註:
・同甲(どうこう): 同じ年齢
・荏土(えど): 江戸 荏は、エゴマという植物。
・片身(かたみ): 身体の半分
・十露盤(そろばん)
・松風(まつかぜ)(しょうふう): 茶の湯で、釜の湯がぐらぐらたぎる音。